我らの時代

榊原(葉っぱ)です。

私は昭和を30年、平成を30年生きてきた。長生きしたら令和も30年生きるのかな。
昭和を幼少期、青春期として生きた。今考えると、とても楽しかった。
小学校にあがる少し前に、名古屋から近郊の田舎町に越してきた。越してきて最初に見たものは田んぼ一面に広がるれんげ畑だった。昔は肥料として秋に稲を刈ってから種を蒔いたらしく、春はどの田もピンク色だった。
れんげ畑でかくれんぼもできたし、れんげでリースを作り頭に乗せてお姫様ごっこもした。お友達の家まで遊びにいくのにそのピンクの田を横切って行った。
蛙の卵も見つけたし、おたまじゃくしが生まれるのも見た。おたまじゃくしが蛙になっていく過程も見た。
小川でメダカも取ったし、空き地でバッタも取った。
外に出れば誰かが遊んでいて、「入れて。」と言えば仲間に入れてもらえた。「チョンパー」「エスエスジー」「出て入って」とかいう遊びをみんなでした。
学校では授業と授業の休憩時間は我先にと校庭に飛び出しソフトテニスや大繩とびをした。
中学でもいじめたりいじめられたりの経験はない。それなりの小さな悩み(胸が小さいとか)の悩みはあったかもしれないけど、毎日は楽しかった。
ツッパリ君やスケバンちゃんがいて、リーゼントという前髪をひさしのようにしている男子とかスカートを長くしている女子はいたけど、そういう人たちとも真面目ちゃんの私は仲良しだった。彼らは真面目ちゃんをいじめたりバカにしたりはしなかったからだ。
平成を子育て期として生きた。子どもたちが小、中学の頃は、私の時代と違うなと感じた。遊ぶのにアポイントメントを取らないと遊べなくなり、家でのゲームが多くなり、陰湿ないじめがあった。
平成生まれの子どもたちは高校生、大学生、社会人になり、平成最後の年に初孫が生まれた。
私たちの子育て期は今のような医療費無料もなかったし(1歳までだった)、児童手当ももらっていないし、高校も公立であっても授業料はいくらか払っていた。今のように夫の理解はないし、入学式も母親だけっていう家庭がほとんどだった。立ち合い出産なんて考えたこともなく、子どもたちが生まれた時、夫は会社に行って仕事をしていた。
それでも、幸せだったなと思う。嫌だったこと、辛かったことを忘れているのだろうか。
老年期を生きる令和の時代。私は社会の流れについていけるのだろうか。わからないことが多くなってきている。同年代でもちゃんと流れに乗っている人もいるが、どうも私は乗り遅れているようだ。もういいや。このまま乗らず歩いていこうと思う。
空を見上げながら。道端の花に癒されながら。
この夏も暑い。年々暑くなっている。今年、来年、私は夏を乗り越えられるだろうか。最近は蝉取りする子どもも見かけない。テレビでは、熱中症アラートが出て、クーラーの効いた部屋でおとなしくしていろと呼び掛けている。地球温暖化ではなく沸騰化だ。
私たちは昭和30年代生まれ。戦争を知らずに生まれてきた世代だ。幸せな世代なのだろう。