≪泣ける・感動≫に対する考察

古山です。

私は昔から「泣ける○○」「感動をありがとう」という言葉が嫌いで、そういうキャッチコピーのついた番組、映画、本には近づかないようにしています。
「泣ける」「感動」は人から強制されたり、お墨付きをもらうものではなく、自然と出て来るものだと思うからです。
でも、世間ではそういう言葉が氾濫して、とても気詰まり…そうしないと、人が飛びつかないのね。

最近、撮り溜めした映画を見て、ますますそう思いました。
20年以上前の外国映画『さよなら 子供たち』(ヒットした記憶がない)だけど、観終わって何とも言えない気持ちになりました。
1940年代、ナチスに占領されたフランスの田舎の寄宿学校の物語で、ユダヤ人の友達との出会いと別れを淡々と描いています。
ユダヤ人の教師や子供をかくまった罪で、学校は閉鎖されてしまうのだけど、その結末を誰も知らない中での映画鑑賞の場面…皆が腹をかかえて笑うシーンを巻き戻して見ました。
何もなかったかのように、皆学校を去って行きました。

青春時代に読んだ本を何年ぶりかで読むと、印象が違うことはないですか。
私はむさぼるように『されど我らが日々』『二十歳の原点』などを読んだのですが、最近読み返したら、アレっと思いました。
それこそ『されど我らが日々』なんて、最終章はハンカチ片手に号泣していたのに、泣けない自分にビックリ…若かりし頃、青い頃があったのね。
それとは別に『平家物語』(口語訳)の一の谷や壇ノ浦の合戦の段で泣けて来るのが不思議です。

心の琴線の位置が変わって来たのだと思います。